【7月2日(土) ガイナーレ鳥取戦】
マッチデープログラム
瓜生昂勢選手インタビュー(全編)
“父親と二人三脚で技術力を育んだ小学生時代”
Q:今回はご自身に作成してもらったサッカーキャリアのグラフをもとにお話を伺っていきます。
まずサッカーを始めたのはいつでしたか?
瓜生:5歳の時ですね。
あまり記憶はありませんが、父親の体格があまり大きくないので、それを踏まえて野球か、サッカーかという選択肢の中でサッカーを勧めてきたと思います。
あとは、保育園にめちゃくちゃサッカー好きな先生がいたので、その先生と休み時間によくボールを蹴っていました。
その影響も大きかったかもしれないです。
Q:そこから小学生の頃はどんなキャリアを歩んできましたか?
瓜生:1年生の頃から地元のクラブチームに入りましたが、どちらかといえば“サッカーを楽しくやろう”というクラブでした。
ただ父親がすごく熱心だったので、普段から練習に付き合ってくれて、そのチームでは自分で言うのもあれなんですけど、1番の存在でした。
ただ5年生になるタイミングでチームを変えたことがグラフにも書いてあるように転機でした。
父親と相談して決めましたが、そのチームはかなり周りのレベルも上がって、子どもながらに周りに負けたくない気持ちが強かったです。
そこから練習量も増えましたし、新しいチームの監督が技術的な部分を中心に指導する方だったので、この時期に技術はグッと伸びたと思います。
Q:クラブを変えようというのは自分の意思でしたか?
瓜生:物心がついた頃にはプロサッカー選手になりたいというのを親に伝えていたので、父親も『それなら高いレベルでやらなきゃダメだよね』とシフトしたんだと思います。
Q:周りに友人もいる中で小学生という年齢で移籍する難しさはなかったですか?
瓜生:もちろん監督から止められましたし、子供ながらに罪悪感もありました。
高いレベルを求めるということは、今の環境が『そこまでレベルが高くない』と言っているのと同じだと思っていたので。
それでも自分の夢のために、もっと上手くなりたい気持ちが強く、迷いはなかったですね。
Q:当時は自主練をよくしていましたか?
瓜生:毎日やってました。
クラブチームの練習が21時に終わって、その後に父親と家の庭で23時くらいまでやっていましたね(笑)。
リフティングが一番周りの子たちとの差を見せるのに分かりやすかったので、リフティングの練習はマストでやっていました。
父がかなり厳しくて、何千回という目標をクリアしたら当時なら中村俊輔やロナウジーニョのユニフォームだったり、サッカーの本といったご褒美欲しさに泣きながらやっていました(笑)。
Q:泣きながらも練習をやり続けた原動力はどこにありましたか?
瓜生:やっぱり悔しかったんですよね。
相手に負けるのも悔しかったですが、自分がこんなに練習しているのに父親はなんで認めてくれないんだという気持ちがありました。
常に高いハードルを設定してきて、無茶苦茶なことも言われてきました。
対戦相手のチームがいるテントの前でリフティング5000回やってこいとか・・・(笑)。
ただそのお陰で周りとの差をつけることができたので感謝していますし、子どもの頃からいつもできない自分に目を向けていたというのがあったと思います。
“サッカー人生で初めての挫折”
Q:6年生のところに『挫折』と書いてあります。
ここは何がありましたか?
瓜生:ここが1番最初の挫折かもしれないです。
中学に上がるタイミングで、高いレベルの環境を求めようとアビスパ福岡ジュニアユースのセレクションを受けました。
5年生の頃からナショナルトレセンにも選ばれていて、その世代の代表手前のところまでいけていたので、当たり前に受からないといけないという気持ちでしたが、3次試験で呆気なく落とされました。
そのセレクションに受かったメンツは、県トレセンで一緒にやっていたメンバーばかりで、スタッフもトレセンを指導していた方だったので・・・。
その中で自分だけが脱落した時は、だいぶヘコミましたね。
もちろん自信もあったので、当時は『なんで落とされたのかな・・・』と思っていました。
Q:そこから中学はどんなキャリアに進みましたか?
瓜生:小学生の頃のクラブにジュニアユースがあり、そこの監督がアビスパのセレクションを受ける前から『来てくれ』と熱心に言ってもらえていましたので、最終的にはそのクラブに行きました。
Q:それだけ悔しい思いをしただけに、当時は見返したいという気持ちが強かったですか?
瓜生:めちゃくちゃ強かったですね。
中学の頃もトレセンがあって、そこにいけばアビスパのメンツがたくさんいましたが、絶対に負けたくなかった。
トレセンに行った時に『レベル落ちたな』と思われないように日頃から練習していました。
ただ今思えば、エスカレーター式で上がったことがプラスになっていると感じています。
小学生の頃は個人を尊重して技術的な部分をすごく指導しますが、中学生ではガラッと変わって、戦術的なことを重視する方針でした。
そこの指導がしっかりと繋がっていたので、そのクラブチームには感謝しかないですし、とても成長した時期だと思います。
Q:グラフにも“戦術”と書かれていますが、その基礎は中学時代に築かれましたか?
瓜生:1番最初に戦術に触れたのがこの時期でしたね。
今でも当時の監督は、試合を見てくれて連絡もくれます。
極度のバルセロナオタクでした。
中盤にシャビやイニエスタがいて、ペップが率いていた頃のバルセロナを愛した方なので、ポゼッションサッカーを最初に知ることになったきっかけでした。
Q:この時期に学んだことが今も活きていると感じることはありますか?
瓜生:中盤の選手はどれだけ周りの情報をインプットできるかで次のプレーが決まります。
中学の頃から味方のためにスペースを空けてあげることを指導されている方なので、もしかしたら今の中学生は当たり前のようにやっていることなのかもしれませんが、僕が当時受けた指導は貴重な経験だったと思います。
Q:同じクラブにいながらもそれだけガラッと指導方針が変わったことで、苦労や戸惑うことはありませんでしたか?
瓜生:めちゃくちゃありましたね。
小学生の頃はボールがきたら、全部ドリブルを仕掛けるみたいな感じでした。
時にはヒールリフトをしたり、フェイントも跨げば、跨ぐほどカッコいいみたいな(笑)。
それが中学になって戦術のことを教えてもらうことで、やっぱり戸惑いもあったし、何度怒られたかも分かりません。
その考え方を変えないと選手として、大きく躓く時期が来るというのをよく言われていました。
ただ僕も、それをネガティブに捉える必要はないと思っていたし、監督が言うことを信用していました。
素直に受け入れていた部分はあります。
Q:ご自身の経験も踏まえて同じように躓く子どもたちには、どんなアドバイスをしますか?
瓜生:どの年齢になっても“立ち返る場所”が必要だと思います。
そのためには自分は何が得意かというのを何歳であっても理解するべきだと思います。
僕の場合は、キックが得意だったので、迷った時こそその良さをどう発揮するのかというところにフォーカスしていたと思います。
もし迷ったなら自分の得意なものを出すためにはどうすれば良いか、というのを考えることが選手にとっては1番良いのかなと思います。
“サッカー人生の中でも心身ともに充実していた3年間”
Q:高校では、グラフが技術もメンタルも右肩上がりに上がっていますがどのような高校時代だったのでしょうか?
瓜生:これまでのサッカー人生の中でも一番、心身ともに充実していたかもしれないです。
未だにオフの時に過ごすことが多いのは高校時代のサッカー部の仲間ですし、環境面も含めてすごく充実していました。
中学3年間での自分を見てくれて、筑陽学園高校に呼んでくれた監督にはとても感謝しています。技術的な部分もスピード感も中学と高校では全然違いますが、その中でも下級生の頃から試合に使ってもらったことに感謝しています。
この時期にアンダー世代の日本代表にも選ばれて、そこで吉武(博文)さんに出会って、技術的にも、戦術とはまた違う個人のサッカーIQの部分も、この代表活動で培ったものがあると思います。
吉武さんは、僕の1番の特徴が何かというのを「ボールを止めることだ」とはっきりと伝えてくれました。
当時、パスやドリブルもそれなりにできる選手だったかもしれませんけど、『瓜生の1番の特徴はどんなボールも止められることだ。
こういう選手はそうはいない』とはっきりと言ってくれたことを覚えています。
あとはめちゃくちゃ頭に残っている言葉があって「俺に瓜生ほどの技術があればどんなスーパースターになっていたかわからないぞ」と言って貰えたこともありました。
それだけあの方はサッカーIQが高いんですよ。
元々は数学の先生で物凄く頭の回転が良い方なので、そういう部分から得るものがたくさんありました。
高校3年間はチームと代表活動を両立しながら心身ともに充実していた3年間でした。
Q:筑陽学園高校では1年生の頃からレギュラーでしたか?
瓜生:当時、九州プリンスリーグに筑陽学園高校が所属していました。
プリンスリーグには1年生の頃から起用してもらっていましたが、選手権は1年生の頃にメンバー入りできなかったです。
そこは悔しさよりも先輩たちも上手かったので、仕方ないという気持ちの方が大きかったのを覚えています。
高校2、3年生と全国を目指しましたけど、2年生の頃は決勝で東海学園に負けて、3年生の頃は準決勝で東福岡に負けてしまったので、全国に出た経験がないんですよね。
Q:全国に出場できていないという劣等感はなかったですか?
瓜生:ありましたよ。そこは父とも話し合いました。
「やっぱり高校サッカー選手権はロマンがあるよね」と。
でも僕は東福岡には絶対にいかないと決めていたんですよ。
東福岡が強いと言われていたので倒したかった。そこは父親も同じ意見で、「強いところに入ることも大事だけど、強いところを倒して全国に行った方がロマンあるよね」と。
そんな感覚でしたね。
中学まではより高いレベルを求めていたのに、高校では強いところを倒して選手権に行きたいという、よくわからない親子の思考だったと今では思います(笑)。
Q:それだけ充実していた中で最も具体的に思い出に残っていることなんですか?
瓜生:思い出に残っているというよりも、未だに悔しい思いをしていることがあって・・・。
3年生の頃に(2013 FIFA U-17)ワールドカップに出場して、その大会でゴールも決めることができたんですが、その期間はチームを離れていたので、チームに迷惑をかけてしまいました。
しかもワールドカップの時期と選手権の時期が少し重なっていたため、福岡県予選の日程もずれましたし、筑陽学園は1回戦が免除でした。
いろんな方に迷惑をかけた分、全国高校サッカー選手権に出なければいけないと思って臨みましたが、自分がいなかった期間が長かったというのもあり、精一杯やりましたが、思いの外持っている力を出し切れずに最終的に延長戦で負けてしまいました。
チームを離れて代表に行ったことに後悔はないんですが、未だに悔しさはありますね。
冬になると毎年思い出します。
鼻にくる冷たい冬の香りで何を思い出すかと言われれば、選手権のことですね。
それはこの歳になっても毎年、チームメイトに対する申し訳なさと、悔しかったことを思い出します。
Q:世代別の代表にも選ばれるくらいの実力があって、高校卒業後にプロにいく道はなかったんでしょうか。
瓜生:僕は高卒でプロ志望でしたが、話しが一つもなかったです。
もちろん、代表まで行っていたので名前は知られていたと思いますが、各チームの関係者がそう判断してその土俵に上がれなかった。
ただ、ダメなら違う道にとそこはあっさりしていましたね。
ある意味、大学の4年間が自分には必要だと周りが判断したと思うので、そこは素直に受け入れることができました。
“波乱万丈の大学時代”。乗り越えた先にあったサッカーの楽しさ
Q:大学ではどんな成長がありましたか?
瓜生:今までは技術的な部分をずっと磨き続けてきましたが、逆に筋トレといえる筋トレはしてきませんでした。
そこも単純な考えで、“筋トレすると背が伸びなくなる”というのを信じていました(笑)。
ただ福岡大は、フィジカルを重視するサッカーでした。練習もボールを触っている時間より筋トレの時間が長いくらいで。
トップチームだと、個人的にフィジカルコーチがついてその選手にあった筋トレもしてくれます。
嫌でも筋肉はつきましたし、フィジカル面はその時期にだいぶ伸びたかなと思います。
今思えば、仮に高卒の時のあの体でプロに入ってもフィジカル面で見劣りし過ぎていたかなと思いますね。
Q:メンタル面は沈んでいる時期がありますが、どんなことがありましたか?
瓜生:“フィッシャー症候群”という病気になって半年間サッカーができない時期がありました。
5分に一度くらい物が二重に見えてしまう病気で運動も禁止されて、歩くのもゆっくりでと言われたので、父は『ダメかもしれない』と思ったみたいです。
もちろん僕も治るか不安でした。
その病気になる人の数は多くありませんが、治るケースは結構あったので、まずは治療に専念しました。
Q:どんな治療をするんですか?
瓜生:病気が見つかったのが遅かったみたいで、骨髄に注射を打ったり、薬を投与しない方がいいと言われて、絶対安静でという感じでした。
Q:そこから復帰するにはかなり大変だったのではないですか?
瓜生:動いちゃダメだし、筋トレもダメで太ってしまったので大変でした。
あの時は流石に病みそうでした。
この1年間は結構色々とありましたね。
Q:完治後はもう一度パフォーマンスを取り戻すためにどう乗り越えてきましたか?
瓜生:まずはカレンダーと向き合いました。
卒業までにあと何日あって、そこから逆算して何をやらなければいけないのかということ、やるトレーニングまで決めていました。
もちろんボールも蹴っていなかったので、技術的な面はそこまで下手にならないと思いましたが、感覚は鈍っていると思ったのでそこを早く戻さなきゃいけないと思って、ひたすらボールを蹴り続けました。
大変でしたが、復帰した時にとても楽しかったんですよね。
やっぱりサッカー好きだなと思えたのがその瞬間だったと思います。
Q:よくこれだけのことがあって乗り越えられましたね。
瓜生:この時のことは、流石に自分を褒めてあげたいですね。
もしかしたら、今サッカーをやれていなかったかもしれないので。
メンタル的には一番成長した時期だと思います。
だから今も自分の思い通りにいかなくても、現実を受け入れて解決策を見出すことができていると思います。
今は去年の自分よりも確実に価値を上げることができていると思うので、そういうところにも活きていると思います。
この時期の心境は今でも思い出します。
Q:それでも諦めなかった一番の原動力はどこにありましたか?
瓜生:やっぱり夢ですね。
幼い頃から思い描いていた『プロサッカー選手になる』という夢だけが原動力でした。
あとは親の喜ぶ顔です。今までの僕をずっと見てきてくれたので、大学卒業して今治に加入が決まった時は泣いて喜んでくれました。
僕の原動力は家族でもあります。
現状は、あの頃に思い描いていた自分とは全く違うわけですが、だからと言って不満ばかりでもなくて、色々とあったからこそ今があるし、やっぱりサッカー選手ってロマンがあるなと思います。
Q:これまでのお話を聞いていても決して順調なキャリアではなかったことがよく伝わったと思います。
瓜生:全く順風満帆ではなかったですね。
ただ周りからは順風満帆に見えるんですよね。
「昂勢はいいよな」と何度も言われてきたし、親もそう言われていたと思います。
ただ自分ではそう思っていなくて、どれだけいろんなことがあったか。
だからこの世界は面白いなと思う部分もあります。
Q:いまはプロサッカー選手という夢を叶え、アスルクラロ沼津でプレーしてます。
最後に、ここからのキャリアはどういうものにしていきたいですか?
瓜生:サッカーの側面で言えば、あと何年サッカーができるかわからない。
もしかしたらテルさん(伊東輝悦選手)みたいな年齢までやっているかもしれないし、来年、再来年には辞めているかもしれない。
ただ何歳になってもサッカーをやっている間は、一つでも上のカテゴリーを目指したいし、目の前にいる相手に負けたくない。
何よりも小さい頃に夢見ていた自分の姿に追いつきたいという思いを捨てずにやりたいですね。
サッカーを続けるなら上を目指せよといつも自分に言っている言葉です。
そこは、これからも変わらずやっていきたいです。
interviewer:森亮太














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