【クラブ創設35周年記念手記:12回目】善本康二氏

創立35周年おめでとうございます。
私が創設者である山本浩義さんに出会ったのは38年前の1987年です。
山本さんは当時、埼玉県の高校の教員を辞めて、埼玉県のとある小さなサッカークラブで、幼稚園で午前中は体育、午後に園庭でサッカースクールを展開しているクラブで指導していました。
当時、私は川崎市の教員採用試験に失敗し就職浪人の身で、母校である国士舘大学のグラウンドで山本さんに出会いました。
それがご縁で、私も山本さんの所属していた埼玉県のスポーツクラブで指導をすることとなり、いつの間にか山本さんのアパートに転がり込んで、衣食を共にさせて頂いておりました。
その後3年ほど経過した時に「沼津でサッカーだけの会社を立ち上げるが、お前もやるか?」とお誘い頂きました。
二つ返事で「やります」とお答えしたのですが、埼玉県のクラブは小さい規模で、私と山本さんの2人が一度に抜けたら大混乱になるため、私が先行して単身で沼津に行くことになり、全く知り合いも地の利もない沼津に乗り込み、立ち上げたのがアスルクラロ沼津の前身となるセントラルスポーツクラブです。
住居は香貫の山本さんの実家の近所で、「空いている部屋があるから使っていいよ」と家賃も取らずに貸して頂き、食事も山本さんの実家に食べに行くという毎日でした。
当時の日本のサッカー事情はまだJリーグ発足前でアマチュア全盛期、沼津市内でも少年団全盛で「子ども達から金を取ってサッカーを教えるとはなにごとか」と、強烈な非難と抵抗にあう情勢でした。
当然、大会にも参加させて貰えず、試合の機会もないほどで、今では考えられない過酷な状況でした。
午前中は和守製作所という工場でアルバイトし、午後、契約して頂いた幼稚園の園庭でサッカースクールをするという毎日。
4つの幼稚園に理解を示して頂き、何とか1人飯が食える状況であったことを思い出すと、「よくやってたな」と自分でも呆れるほど無茶苦茶でした。
自分でもアスルクラロ沼津の成り立ちを語れる貴重な存在だと思います。
その後、山本さんが埼玉を引き上げてくることになったのですが、当然クラブの収入は少なく、2人が給料を取るなど不可能であるため、私が神奈川県に戻ることにしました。
さすがに社長に鉄工所でアルバイトさせる訳にはいかないと、自分で判断しました。
山本さんが沼津に帰ってきて、私が神奈川県に戻ってから、時代が大きくプロ化に向けて動き始め、多くの方から理解を得られる様になり、今のアスルクラロ沼津に変貌を遂げることとなります。
この話は山本さんにも話していない話ですが、ある時、埼玉のアパートにいた時、山本さんがいない時に一冊のファイルを盗み見してしまいました。
何とそこには、現在のアスルクラロ沼津(名前はなかったですが)に変貌していくまでの行程が事細かく記されていて、夢のような展開に「この人頭大丈夫か?」「こんなこと実現できる訳ない」と思ったのですが、今となってはこうなることがわかっていたくらいに、その通りになってきて驚いています。
現在に至るまで、山本さんの志に対し、数え切れないくらいの理解者と協力者に恵まれ、苦しい時も歯を食いしばってクラブの運営に全勢力を尽くしていた姿勢には、頭の下がる思いでいっぱいです。
何よりの原動力は、子ども達が大好きであることだと思います。
これからも、将来の子ども達のために、素晴らしいクラブであって頂きたいと思います。
そしていつの日か、アスルクラロ沼津がJ1で優勝して、日本代表にも多くの選手が輩出されている日が来ることを熱望し、お祝いの文章とさせて頂きます。
誰よりも陰でアスルクラロ沼津を応援している者より
有限会社 もわ
代表取締役 善本 康二